今も伝わる応援団の熱き想い・・歴代「剛毅」から

(21-30) 10本づつまとめています。右のシートをクリックしてください。


第21回 “剛毅”を通してつながる我らが応援団

第4代団長 佐村輝男   

 

ここにちゃちであるが、諸先輩方が愛しに愛しぬいた応援団の現状をお伝えすべくOB会誌“剛毅”1号が完成し喜びに堪えません。常日頃から連絡だけは密接にしているものの団員が団というものをいかなる風に考え行動し、悩み苦しんで目的を見い出して行くか、また見出して来たか…というところまで知らせる手段がなかった。

団員は少なくとも、一度は計り知れない大きな壁にぶちあたるのである。それは「目的」という漠然とした壁である。応援団の目的とはいったい何なのか?人間誰しも目先の目的に対しては、希望を持って突進していくものであるが、目的が掴めずわからずに毎日が空を掴むような日々、それに厳しい練習がプラスされる団生活はどうだろうか。馬鹿でない限り絶望して投げ出すだろう。しかし、このような生活の中から悩み苦しんで目的を見い出すところに意義があるのではなかろうか。また、それは誰もが羨むところではなかろうか。諸先輩方も多分、かくなる悩みをお持ちになったことでしょう。その悩み、苦しみがあるからこそ、応援団の歴史が続く限り、80歳になったお爺さんOBも、20歳の青年も心を一つにして話し合え、信頼し合えるのである。

人間関係というものは、時が経つにつれて疎遠になるものである。でも我が団だけは違う。疎遠になるならば、なぜ大学時代に、何のために団一筋に賭けた来たのかという疑問と焦燥感にかられるであろう。毎年一度しか発行されない“剛毅”によって戦友ならぬ団友を思いだし、戦場ならぬ武夫原に思いをはせ懐かしみ目頭を熱くし、機械化された社会の中で生きている諸先輩方の心にぬくもりを与えてほしい。

 

(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)

(写真は昭和44年7月 九州インカレ-主管熊大-下通りパレード)

   ※旗手(福岡氏)の後ろが故佐村氏


第22回「オッス」で全てが事足りる応援団 

 (一回生)  

 

まったくの偶然で応援団に関係してしまった。今ではこれも運命とあきらめている。応援団は便利である。「オッス」の一言で全てが事足りる。まさに単細胞である。バカになった男と男のぶつかり合う応援団では、現代の人間疎外など無関係である。これが応援団に入って一番良かったと思っていることである。これから人間的な逞しい男になろうと思っています。

 

(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)

(写真は昭和45年4月 新入生歓迎コンパ(7代目が新入生:阿蘇草千里) 


第23回 学館ロビーでの出会い、運悪く?  (一回生)

 

執拗なまでの部員勧誘。応援団にはそれほど興味を抱いていなかったし、約2か月間よく継続できたものである。あの日、学館ロビーで運悪く(?)とっ捕まったことは、僕の大学生活において極めて重要な意味を含んでいたかもしれない。とにかく、諸先輩についていくのみである。そして大いに悩み、苦しみ、熊本大学応援団の本質を学びたい。

 

(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)

(写真は昭和45年4月 学館前の応援団勧誘ブース)


第24回 楽しいから面白いからやっているのではない…団生活(二回生)

 

思ったことを素直に述べよう。俺は何でこんな馬鹿みたいなことをやっているのか?

自分で頭がおかしいなる時がある。いつも自己に挑み「自分に甘えるな」と言い聞かせ、下宿に帰ってホッとするだけのことではないか。

そして、次の日も又“しごかれる”と思えば嫌になる。しかし練習がないと何か一本抜けた感じがする。考えてみると、楽しいから、おもしろいからやっているのではないようだ。感激、それも俺だけの感激のためかも知れぬが、それも年に一度か二度しかなかった。俺はその時、応援団を恋人のように感じた。あの時の感激を忘れたくない限り、バカ者と言われても俺はやるぜ!

 

(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)

(写真は昭和46年4月 火の国まつりにて)


第25回 初めてのOBとの出会い、緊張から親しみへ

(二回生)

 

夏合宿、強化練習を終え9月。その日がやってきた。写真でしか見たことのない顔、人づてにしか聞いたことのない言葉、その現実の姿を今、目の前にするのです。緊張の糸が張りめぐらされた床の上を歩くような気持ちで先輩方を迎えました。

OBを交えた合同練習では、昔なつかしい古びたジャージを着て、汗をかく先輩の姿を見たとき、何か先輩に対して抱いていた「畏れ多くもかしこくも…」という感じは崩れ、いい意味でもっと親しみやすい感じを受けました。立田山の坂道を先輩たちと一緒に駆け上がりましたが、先輩たちはどんな思いがあったのでしょうか?すがすがしい笑みをこぼす先輩の顔が印象的でした。

コンパでは、演武会の緊張もほぐれ、先輩たちと杯を交わしいろんな話を伺いました。いつまでも若い先輩たちの情熱を込めた話に驚かされ放しでした。ここに我が応援団の発足の礎があるんだという気がしました。

開けて翌日、昨日の酒はどこえやら…やる気満々で気力充実の先輩方とのソフトボール試合です。うわさを聞いていた僕らにとっては、負けてなるものぞばかり、気持ちを高めて臨んだものの、その“OLD POWER”の前にあっけなく玉砕され、ただあっけにとられるばかりでした。

しい時間は思ったより短く、2日間の日程を終えたOBの皆さんは、それぞれの世界に戻って行かれました。祭りの後の寂しさにも似た感情にひたりながら思いました。

“また、2年後に会いましょう。次は20周年です。”

 

(昭和57年10月発行「剛毅」ウルタン14号から)

(写真は昭和57年9月第6回OB会から 


第26回 押忍--耐え難きを耐え 忍び難きを忍ぶ  (第20代幹部)

 

「押忍」この二文字と出会って3年…何回この言葉を発したことか。一回生の頃、生協の食堂で、大声で「押忍!」と叫ぶのがなんとなく誇らしげな気がして快感だった。二回生になり、一回生から「押忍!」と言われるようになり、少し偉くなった気がした。

そして幹部になった。一、二回生の「押忍」の仕方が悪いと怒る。応援団活動は、すべて行く着くところは「押忍」だ。応援団とは「押忍」の二文字で表現される。「押忍」とは、単なる挨拶や返事ではないということだ。押忍の意味を考えなければならない。日常生活全般に「押忍」の心を発揮して「押忍」を追求しなければいけない。

 

(昭和60年10月発行「剛毅」ウルタン17号から)

(写真は昭和61年3月春合宿から


第27回 二回生の今…すべてが山積み

 

11月も終わりに近い今、自分は飽和状態です。つまりすべき事が山積みしているという状態です。とても喜ばしいことです。自分はこの余裕なき状態が好きだからです。これからもそうあればいいと思います。これは試行を放棄したために状態が変化しないことではありません。自分は今2回生であり、ここの応援団の感覚を伝えるべき立場にいます、体現者たり得ているか甚だ疑問ですが、やらねばなりません。自分は智に働き流されず意地を通さなければなりません。そうすれば住みやすくなると思います。

 

(昭和60年10月発行「剛毅」ウルタン17号から)

(写真は昭和60年3月春合宿から

 


 第28回 学館前の歩いた道が応援団の道だった 

 

それは、忘れもしない4月11日の午後のことであった。学部の入部式を終えた私は、スーツ姿で生協に入会しようと学館への道を急いでいた。それが間違いのもとだった。もしあの時、裏門から出ていれば、私の大学生活は今と百八十度変わっていたであろう。しかし、現実は学館前で、突然腕を掴まれた。

「応援団ですが、ちょっと話を聞いてください。」と言われた。その「ちょっと…」が甘かった。楽しそうな写真ばかり見せられたあげく…

「マネージャーは可愛い人ばかりで、すぐに仲良くなれるぞ!」とかニコニコして説明された。

高校時代に応援団に入っていた私は、それが勧誘の常とう手段であることを知りつつも、先輩方の熱意に負け、最初の「ちょっと」が2時間半になった挙句に、ついに入団届に署名してしまった。それから3か月が過ぎたわけであるが、もう無我夢中であった。練習は2時間だが、その長いこと、長いこと。高校時代とは練習の密度が違っていた。ランニングが苦手な私にとっては、あの『二列縦隊!』という声が、死の宣告のように重く胸にのしかかってくる。

立田山が、すぐ近くにあるのを恨む時もある。武蔵塚、八景水谷、熊本城、江津湖、本妙寺など、観光の名所であるはずの所が、まったくそれどころではない。それに、入団当時聞かされたことのなかった「強化練習」などもあり、苦しんでいます。練習前は、ただでさえ尿意が近いのですが、緊張のあまり何回もトイレに走ります。しかし、練習が終わった後の解放感は、何物にも替え難いものがあります。

そして、練習に勝るとも劣らないくらい私を苦しめたのがコンパです。「熊本はイモ焼酎ばかり飲んでるぞ」と聞いていましたが、なるほど聞きしに勝るものがありました。酒が全く飲めない私にとっては、入団式、新歓コンパは地獄でした。しかし、幹部交代コンパのときからは、その考えが変わりました。あの大杯の儀式をみてからです。やはり酒は強くならなければいけないと強く感じました。これから数えきれないほどのコンパをこなしていくうちに少しは強くなるでしょう。まだ、入団したての何もわからない一回生ですが、とりあえずは、目の前に迫った「インカレ」を目標に頑張りたいと思います。

 

(昭和59年10月発行「剛毅」ウルタン16号:20周年記念誌から)

(写真は昭和59年4月新入生歓迎コンパから


第29回 もう甘えは通用しない。常に限界をもとめて

 

自分はなぜ応援団というところに入団したのだろうか。今でもよくわからない。4月の新入生勧誘につかまり、また寮で同じ階の応援団先輩からいろいろと話を聞いて多少の興味は持ったのだが、むしろ不安や後悔の気持ちの方が大きかった。大学に入ったらとにかく何かクラブに入りたかった。中学、高校を振り返ると、とても満足のいくクラブ活動ではなかったし、クラブを通して良き先輩や後輩、友人関係は得られなかった。だから大学では充実したクラブ活動をして生涯付き合えるような人間関係を持ちたいと願っていた。それもちょっと変わったクラブに入りたいと思っていたが、まさか応援団などというところに入ろうとは思いもしなかった。熊大応援団との出会いはまさに偶然と言えるだろう。

早うもので入団してから、もう7か月過ぎた。その間コンパも数多くあった。まだ酒を美味しく飲める境地には至っていないが、コンパのあの雰囲気は好きだ。馬鹿みたいに騒ぎ、歌い、語り、そして泣いた。内向的な自分にとっては、このような心を開ける場が必要だ。いろんな事もあった。5月合宿、幹部交代、早朝練習、インカレ、強化練習、遠歩…。きついばかりだった。しかし、それを確実に乗り越えてきたことで、、4月入団当時の自分に比べて、今の自分はいくらか成長をしたと信じたい。来年も再来年も同じことが巡ってくるが、そのたびごとに違った心構えを持って確実に自分のものにして行こう。

応援団の練習はきつい。涙が出るくらいだ。しかし入団して7か月過ぎて演武会を目指しての練習をやっている今、「一回生だから…」という甘えはもう通用しない。今まで甘え育ってきた自分を鍛えなおさなければならない。常に限界を求めていけるような自分でありたい。

 

(昭和56年10月発行「剛毅」ウルタン13号から)

(写真は昭和57年3月の春合宿から 


第30回 嫌であり新鮮な刺激のある応援団

 

大学という世界に飛び込んでそろそろ8か月も過ぎようとしている。あの入学当時のあわただしい毎日は送っていたが、最近は、たいした変化もない日々をそれなりに過ごしている。そんな一日の中で僕の生活をかき乱しているのは、まちがいなく応援団なのである。一日のうちの午後5時から7時頃までという短い時間であるが、僕の心をかき乱し身体をいじめる。時にはすごくそれが嫌であり、時にはそれが何かしら新鮮な刺激でもある。そんなふうに、ともかく応援団は僕の心の中でドスンと居座ってしまった。

応援団っていうものを以前よりは好きになった。これから先も続けるだろうなあ。やり始めたら最後までやり終わるまで意地になってするところがあるからなあ。いつか応援団一色に染まる日が来たりして…。

 

(昭和56年10月発行「剛毅」ウルタン13号から)

(写真は昭和56年7月の鹿児島でのインカレから