金守先生の思い出
金守先生は、昭和43年(1968年)12月に応援団顧問に就任していただいた。以来教育学部教授を退官される昭和61年(1986年)までの長きにわたり顧問として、応援団活動へのご指導、ご助言をいただいた。毎年発行している応援団OB会誌には、先生の応援団への温かい想いが伝わってくる寄稿文が掲載されている。その中の一部を再掲させていただきます。
顧問教官であることの喜びと誇り(昭和44年発行 剛毅第1号)
数年前、武夫原の片隅で応援団は、ささやかな産声をあげたように記憶している。夕闇せまる武夫原で同じ動作を、声をからしながら厳しく気合いをこめて反復練習をしている姿に、当時私はひそかに敬意の念を払っていた。
今や応援団は体育会の底辺を支える大きな存在にまで成長を遂げている。はからずも顧問教官としての依頼を受けた私ですが、団員諸君と接するたびに顧問教官になった喜びをしみじみかみしめている。一見荒々しい印象を受ける行動や動作の中に秘められた美しい友情や義侠心、自らの使命を自覚して自己を犠牲にして、一点の疑いすら抱かず、ただひたすらに黙々と学友の士気を鼓舞することに心血注いでいる諸君の美しい心情は、それらのものが失われつつある今の世代に、キラキラと宝石のように輝いている。
私は、応援団顧問教官であることの喜びと誇りを諸君に深く感謝するとともに、諸君の今後の努力と発展を心から期待している。
(写真)昭和48年1月第4回演武会において 金守先生あいさつ
夕闇が迫る武夫原に響く歌声に…
(昭和46年発行 剛毅第3号)
武夫原に夕闇が迫る頃、今日も又、応援団の練習の声が研究室まで聞こえてくる。
「ああ、今日も皆元気にやっているなあ。」
私も頑張らなくてはと、自分を励ますことが最近たびたびある。近頃、学内における雑務的な仕事が多くなり、なかなか団員の諸君と話す機会がないまま、何となく諸君も研究室や我が家からやや足が遠のいているようだ。昔は(昔とは大げさだが)団長を始め団員の諸君が何かと理由をつけて話し込みに来たり、或いはこちらが悲鳴をあげるくらい我が家にも押しかけてきた。私自身も諸君と、杯を交わしたり、人生や学内問題等について勝手きままな話をするのが楽しみであり喜びであった。そのことが楽しかった思い出として残っている。
この十数年は私も熊大に在職していると思うが、今後、年をとればとるほど君たちとの語らいや思い出は大切なものになってくると信じているし、また大切にしていきたいと思っている。卒業した諸君は、約束通り必ず近況報告を始め、大切なお嫁でももらう時は、それこそ事前報告の義務を怠らないようにしてもらいたいし、在校生の諸君は、私がなかなか運動場に出られないからと敬遠せず、私の研究室や自宅に押しかけて来て、たまには夜の巷に誘惑してもらいたいと心ひそかに思っていることを白状しておく。応援団を愛し団員諸君の健闘をこころから祈っている。
(写真)昭和61年2月 金守先生退官祝賀会
応援団諸君との宴で感じたこと(昭和61月発行 剛毅第18号)
早いもので熊大を退官してから、数か月余りになる。最初の頃は一抹の寂しさもあったが、人間には新しい環境に対する素晴らしい適応性があるもので、やがて新しい生活にも慣れ、最近では毎日張りのある充実した生活を送っています。最近、11月中旬に7代団長だった河村君から電話があり、「実は忘年会を兼ね先生の家でOB会をやりたいんですが…」との話があった。ご存知のように我が家は、家内と二人の上、家内もあまり健康でないので、これは大変なことになると返事を渋っていたところ、さすがに銀行員(河村氏)だけあって、電話の向こうで私の気持ちを察知したのだろう。「先生、何もご迷惑をおかけしません。我々が、料理から酒まで全部準備し持参し、OBの奥さん同伴でお邪魔し炊事一切をやりますから、先生と奥さんは、ただ座っているだけで結構ですから」とのことなので、一応快諾した。
その計画では、大体5,6人で、私も久しぶりに懐かしい諸君に会えると密かに楽しみにしていたところ、その前日に再び河村君から電話があり、実は参加者が10人くらいに増えるとのことであった。
「これは大変になった、10人も座れる食卓をどうしようか」など急に心配になった。
「こら!我が家は料理屋ではないぞ!! 食卓などをどうするのだ」と思わず、つまらぬグチを言ってしまったところ、河村君の電話が切れてものの5分もたたずに、OB会幹事長の南君から電話があり…
「先生、ご迷惑をかけます。会場を変更しましょうか?」と如何にも心配そうに相談があった。これは、河村君が心配して早速、南君に相談したなと感じたので、「今から変更するといって心当たりあるのか」と尋ねたところ「何とか探してみます」と頼りなさそうな返事なので、折角の好意ある企画を、このようなことで心配させて申し訳ないので、予定通り我が家で実施することにした。
当夜は待つほどに池松君夫婦がまず到着した。他の諸君の到着まで酒と肴を前にして待つのはなかなか難しいので、「池松!! どうせ飲む酒だ、三人でそろそろ始めながら待とう」と早速酒宴が始まった。
やがて、3代目団長の古賀君が奥さんと一緒に、そして南君が順次集まって宴はますます佳境に入った。それぞれの諸君がびっくりするような数多くのご馳走と酒を持参してくれたので、本当我が家は何も準備しないまま豪華な酒宴になってしまい、賑やかで楽しい和気藹々とした宴がいつ果てるともなく続けられた。参加者を詳記すると、古賀、南、河村、池松、原田、守尾、阿南、花籠の諸君と古賀、池松の奥さんであった。
そのうち、古賀君から「先生!このような会は年に2,3回やらないかんですな!」という提案があり、私も先生に諸君の好意が嬉しく満場一致で決定した。私にとっては、社会的にも人間的にも大きく成長していく諸君を目のあたりにするのは、この上もなく幸せなことであり、特にだんだん立派になる諸君が、このように酒、肴持参で集まり、学生時代に戻り歌を唄い、肩を組んで「武夫原」を踊り、私たち老夫婦を心温かく激励して頂き、この上ない果報者だと思っている。正直なところ、この次の会合を古賀君や南君、河村君たちが相談して何時頃に決定するのか今から待ち遠しく思っている。
どうか、応援団のOB諸君や現役の諸君!!、私も退官して時間の余裕もできたので、機会があれば連絡して遊びに来てもらいたい。呼び出しなら、ますます結構で健康の許す限り出かけて、諸君と杯を交わしながら、昔話などしたいものだと思っている。寒さもこれから厳しくなると思うが、どうか健康にくれぐれ注意して益々のご活躍を心から祈ります。
(昭和52年9月 第4回OB会懇親会にて)
若き日の金守先生(昭和60年10月1日熊本日日新聞記事から編集)
我々の知らない金守先生…、戦後の昭和20年代から陸上競技に打ち込み、教育者として戦後の日本を発展へと導いた姿が浮かび上がってくる。以下、熊大退官時の新聞記事から、要約して、その姿を追ってみる。
戦後の荒廃の中から産声を上げた国民体育大会。金守新一(65歳/熊大教育学部教授)は、その戦後の第1回大会(昭和21年)から第6回大会(昭和26年) までやり投げの選手として出場した。
金守は、昭和19年に東京高等師範体育科を繰り上げ卒業して、学徒兵として応召、そして常に死を意識した時代から一転終戦、国体で再び見た日の丸は終戦とともに燃え上がった陸上競技への情熱に拍車をかけた。
しかし情熱だけではどうにもならなかった。物資が欠乏し、まともな生活さえできない時代だった。昭和21年には五高で教職についたが、月給は食費で消えてしまった。国体出場の苦労は並大抵ではなかった。妻の英枝は自分の着物を入質し旅費の費用を捻出し、国鉄関係の陸上仲間に頼み込み汽車の切符を手に入れた。
ギュウギュウ詰めの汽車に、競技のやりを携えて数日かけて会場の石川県に着いた。昭和22年の第2回大会の事である。戦後のスポーツの復興は、オレたち高等師範生が率先してやるという気概が苦難を乗り切る支えとなった。
それから40年近くがたった。金守は熊本大学教育学部で後進の指導を続けた。専攻は体育実技。運動技能分析を手掛ける。運動方法学ともいう。その研究に「選手時代の経験が大いに役立っている」と語る。
しかし、「研究する立場にあっても、やはりスポーツは“教える”より“やる”方がいいね」と言って、週3,4回は花岡山に登る、更に30キロのダンベルを使った筋肉トレーニング。夏は更にプールで1000mの遠泳である。この年になっても、テニスをやっている時は「絶対に勝ってやる」という気で相手に向かうという。来年3月には退官する。でも「スポーツに関しては、手抜きをするのができない性分。死ぬまでスポーツマンでいたい」という金守の現役時代の精かんさが今も息づいている。
(写真は昭和21年頃 熊大武夫原_やり投げをする金守先生 )
和田先輩の思い出
和田初代団長はOB会誌「剛毅」に毎年、心に残る数多くのメッセージを寄せていただいた。その中のごく一部であるが、50周年記念号に再掲させていただきます。
孤高……我が熊本大学応援団(昭和45年発行 剛毅第2号)
私の5年間の熊大生活のうち、後半2年間の全てをかけた応援団。喜怒哀楽…そう、それはまさに生活の全てだった。商大との合同練習、初めての団長会議、まさに本当の兄弟だった合宿、武夫原の砂の上を裸足で走った厳冬の早朝、理由もなく、あとからあとからとめどもなく涙のこぼれたコンパ、そしてとても思い起こすことできないさまざまなことが走馬灯のように脳裏をかすめ過ぎては、あの感激の発会式につながる。もう、あの日から3年の歳月が流れた、まさに感無量。
太鼓が欲しかった日々、団旗が、校旗が、部屋が、演武が、練習場が、そして何よりも団員が欲しかった日々。それらの日々が教えてくれたのは、「求めなくてはいけない」ということだった。「限りなき欲望が限りなき前進につながる」ことだった。より堅固な「団結」を求め「和」を求め、より素晴らしい『応援団たること』を求める。いつまでもどこまでも、限りなく求める応援団でありたい。
誰かが言った「何であろうと 人間が本気でやることは そのままで立派だ」
ウルタン~~実に懐かしいことばだ。
今やすでに5代目を数え、多くの団員を持ち、優れた演武と立派な校旗とを有し、部屋も練習場もある。私達が欲しかった外面的なものはほとんど揃い、その上、ある程度の実績と信用と名声をも得た。
そのことは、私達にとって、まさにこの上ない喜びだ。だが、その居心地の良さの上に、もしも胡坐をかきそうになった時、思い起こして欲しい、ただ一つのことがある。それは、この集いが常に人間と人間との、友と友との心の触れ合いによって支えられているということだ。そして、またそのことの「誇り」だけが、私達の“世代”を支えてくれたのだ。
孤高……我が熊本大学応援団は、そんな一本の厳しい道を行く。
(写真は昭和46年9月 第2回OB会 熊大正門)
終わるのではない はじまるのだ
(昭和49年発行 剛毅第6号)-応援団10周年記念号-
ありがとう。
何に対してなのか自分にもわからない。でも、今の自分を生かしてくれた何物かに対して、ただ、ありがとうと言いたい……そんな気持ちである。 「10周年は女房同伴で集まろう」折りにふれて私達はこんな話をした。しかし、そんな話をしながら「夢だ」と呟いている、もう一人の自分をいつも感じた。その夢が、今、ここに、こうして現実となっている。どうして嬉しく、またありがたくない筈があろう。その喜びを、この集いの中で過ごしてきたみんなと、心ゆくまでかみしめていたい……今はそんな気持ちである。
過去は過ぎ去った日々でしかない。しかし、その過ぎ去った日々があって、はじめて今日がある。今日の、この感動は、10年という歳月が生み出したものなのだ……。と同時に決して忘れてならないことは、今日の、この感動が、「明日」を培っていくということだ。出来るか出来ないかは、やってみなければわからない。大切なのは、「出来る」と信じることだ。
(写真は昭和52年9月 第4回OB会)
あの頃は……。太鼓が欲しかった。団旗が欲しかった。部室が、演武が、練習場が……、そして何より団員が欲しかった。欲しかったから求めた。求める気持ちに終わりはなかった……。そして、今こそしみじみ思う……。それが目的だったのだと。求める日々が、夢に近づく日々だったと。何もなかった。だから夢があった。だから可能性があった。だから生き甲斐があった。10周年を迎えた今、一体何があるだろう。これから何を求めていったらよいだろう。孤高……あくこともなく求め続けていく団員諸君にこれからの夢をたくしつつ、私の拙い詩を10周年に寄せる。
終るのではない、はじまるのだ。
生きているかぎりいつでもどこでもそこで終るということはない。
生きているかぎり、いつでもどこでもそこからはじまることができる。
若者に過去はない、若者にあるのは、常に現在…ただ今と未来だけだ。
一生懸命生きろ、力いっぱい生きろ。
己を信じて精いっぱい生きてきたことに喜びと誇りを感じる日がきっとくる、必ずくる。
その日まで、黙って歩け。
(写真は昭和55年9月 第5回OB会)