●1966年(S41)2月
「応援団を作りたいと思うんですが、協力していただけませんか」……私が、当時の体育会会長の田川君(応援団2代目団長)から、初めて依頼を受けたのは、昭和41年(1966年)2月、空手道部の追い出しコンパが子飼の「サイトウ」で行われた席上でのことだった。その折、私は空手の練習中に骨折して、まだ、左足にはギブスがはめられ、松葉杖をつきながら、そのコンパにも参加していた状態であったのだが、軽い気持ちで「足が良くなったら」と、引き受けてしまった。
● 同年 5月
【エール交換を一人できる】
新年度になり、対商大春季定期戦の市中パレードがあるというので、例のごとく花畑公園に集合した。当時、私はエールひとつ知らない、一人の団員も持たない、文字通り名目だけの団長であった。いつものように商大と熊大がむかいあって挨拶をかわす。商大応援団のエールが終わると、「礼儀だからお宅もやってくれ」ということだ。私に出来るはずはない。応援団の作法……、そんなこと私が知っているわけもない。でも、やらねば戦う前から熊大が敗れたことになる。少なくともあのときはそう感じた。そして、この瞬間が、応援団結成への私の決意を不動のものにした。
【力いっぱい戦おうという意志をもつために】
私は何も知らない者達から嘲笑をうけているのが恥ずかしかったのではない。私を笑っている相手の学校に対しての憤りを感じたのでもない。何のために己が今、この公園に集結しているのかさえ考えてみようともせず、自分の学校が当面の戦いの相手校から面前で笑われているのを見ながら、自分も一緒に笑っている連中の神経がたまらなかったのだ。一体、何のための結団式なのだ。あの頃までは、確かに戦う前から勝敗は決していた。参加することに意味を見出そうとするのは確かに尊いことだ。でも、力いっぱい、精いっぱい、戦おうという意志を持たずに何が参加だ。
【九州地区インカレで他大学応援団を見て】
そこに集結した九州各大学の応援団を見て、正直言って、そこに存在する不可思議なものを痛感せずにはいられなかった。俺が求めていく道は……、俺がこれから作ろうとするものは…… こんなんじゃない! その時、恐怖の下で一生懸命自分に言いきかせていたような気がする。ともあれ、熊本大学応援団は、その産声を高らかにあげる日をめざして陣痛の苦しみ真只中を歩き始めたのだ。
(和田英樹氏、10周年記念OB会誌「剛毅」に寄稿)