追 悼 の 言 葉

応援団OBの皆様にとって、人生が長くなれば長くなるほど喜びや悲しみを増えることと思います。これまで、掲示板で追悼のメッセージ等を頂いていました。でも掲示板では、次から次に連絡が入り込んでせっかくのメッセージも埋没します。そこで、この「追悼の言葉」ページを新設し、故人への尊崇の念を表し続けたいと思います。


2021年(令和3年)10月 ご逝去  眞鍋伸穂氏(3代)

(追悼の言葉)

久しぶりにパソコンを開き「応援団HP」を見たら、眞鍋先輩の訃報がありました。茫然とする中、改めて五十年余を経た時の移ろい様を思い知る心地がいたします。
屹度、眞鍋さんは、ご自身が、草創期の熊大応援団で過ごされ積み重ねられた日々の地道な頑張りと、今日も尚、脈々と続く団の姿を糧として、精一杯、力一杯人生を歩まれ見事に生き抜かれたことでしょう。心より冥福をお祈りいたします。


2018年(平成30年)5月 ご逝去  三小田啓治氏(7代)

(追悼の言葉1)

三小田先輩の訃報に接し心より哀悼の意を表します。応援団在籍中はもちろん、卒業後も福岡市内というエリアが同じであり、一緒に飲む機会もあり、とても懇意にさせていただきました。ビアガーデン・スナック等に行き、はしごをしたこともありました。中洲大通りで武夫原頭を肩を組み踊ったことも思い出されます。また、教育関係者の共通の知人も多数出来ていました。その知人から三小田さんの管理職として奮闘ぶりや三小田さんの持て生まれた明るさで、楽しい学校になっていることも聞かされていました。本当に残念です。心より冥福をお祈りいたします。

(追悼の言葉2)

葬儀に参列して一番感じたことは、三小田君の応援団愛の深さでした。奥様の挨拶、お嬢さんのとの話、導師様の法話、送別の言葉すべてに応援団の話で一杯でした。そして、奥様とお嬢様から「是非、『武夫原頭に草萌えて』をお願いします、主人も一緒に歌いますから」と依頼がありました。三小田君がいつも応援団のことをいつも周りの人に話していたからだと思いました。三小田君は声が応援団イチ大きくて、体もデカくて、心もデカくて、正義感の強い男らしい男でした。一方、皆を楽しませてくれて、本当に愛されてました。あなたの仲間だったことを誇りに思います。ありがとう三小田君。三小田家の末永いご多幸を祈念し、フレー、フレー、三小田!



2018年(平成30年)4月 ご逝去 真藤浩隆氏(15代)

(追悼の言葉)

本日(4月19日)第15代目眞藤浩隆君の葬儀に参加しました。葬儀会場は彼が勤務しておりました長崎南山学園と関係が深く学校の隣接敷地にあり、多くの教職員、生徒、OBの参列があり、生前における故人の活躍、人柄が偲ばれました。4月2日直腸がんの手術が成功して、順調な回復で、ゴールデンウイーク明けには職場復帰の意向でいたところ、先週の金曜日から突然容態が悪化し、透析を試みたが、昨日未明に逝去されたとのことです。

昭和57年に長崎南山学園に採用され、36年の勤続、応援団の顧問もした58年の生涯でした。ご遺族も学校関係者も突然の死であったため、深い悲しみにありましたが、葬祭場を出た霊柩車が学校の正面玄関に廻り、待機していた大勢の在校生や教職員、保護者などから見送られるシーンもあり、尊敬される教員であったことを痛感いたしました。

あらためて、眞藤浩隆君のご冥福をお祈り申し上げます。


2018年(平成30年)1月 ご逝去 福崎誠氏(18代)

(追悼の言葉1)

葬儀に参列して参りました。ご家族の悲しみはいかばかりかと拝察いたします。謹んでお悔やみ申し上げます。年頭にいただいた年賀状には「今ゴルフにハマってます」とあり、いつもと同じ穏やかな新年を迎えられたと拝察しましたが、1月4日の夜、突然くも膜下出血に襲われ、治療も間に合わなかったとのことです。式の間、祭壇の遺影を私はずっと見つめていました。お嬢様の入学式でしょうか、満開の桜を背にあの頃と同じ穏やかな微笑を浮かべる福崎君の姿がありました。まだ中学生の二人のお嬢様、最愛の奥様と共に、愛情に満ち溢れた素晴らしい家庭を築かれたことは、ご家族のお別れの言葉から窺えました。ご本人もご家族もさぞかし無念であったことでしょう。今はただご冥福をお祈りするばかりです。

(追悼の言葉2)

突然の訃報で、言葉もありません。福崎君とは、麻雀、パチンコ、ボウリング等々、原付バイクで大学周辺をうろうろしながら、よく遊んでいました。煙草を吐いて、ニコッとする笑顔が思い出されます。洋楽が好きで、教えてもらったポールヤングやシンプリーレッドは、今もよく聴いています。

定年でもして、のんびりできるようになったら、そのうち会えるかなぐらいに思っていました。もう会えないんですね。残念です。心からお悔やみ申し上げます。 



2017年(平成29年)6月 ご逝去 副島靖英氏(初代)

(追悼の言葉1)

副島先輩の通夜、葬儀に行ってきました。葬儀では団旗を会場入り口に掲げさせていただきました。奥様他親族の方々に「この団旗のデザインは副島先輩作です。」と伝えると大変喜んでいただきました。副島先輩の大きさを我々は応援団の中でしか知りませんでしたが、今日教師としての偉大さを初めて知った気がしました。応援団の学生生活で培われたことを、教師になられて実践され、先輩の宝物は教え子であった様です。生涯現場一教師として教え子に立ち向かい絶対逃げなかった姿がそこにありました。男の生き方として羨ましさえ感じました。

 

(追悼の言葉2)

副島先生は、教育に全身全霊をかけてこられた求道者のような先輩でした。「国語」の教師には、日本語という言葉の教育だけでなく、言葉を通して日本人の道徳観・倫理観をも教えることがも求められています。

先生の教育者としての立場は、応援団活動の中と全く同じで、常に女房役に徹しておられたように思います。同じ教員の道を選んで、先生の真似をし、追いつきたいと願ってきた私でしたが、ついに足下にも及びませんでした。ゆっくり日本の教育について、お話を伺いたかったです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(追悼の言葉3)

副島先輩の葬儀に参加して、改めて先輩の人としての器量に大いに感ずるところがありました。通夜では、同僚だった先生方もたくさん見えていましたが、それ以上に教え子さんが沢山来ておられました。おそらく先輩が初任の頃の教え子でしょうか、相当年配の方々が「教え子です」といいながら、連れだってお参りされていました。生徒とともに日々奮闘され、特にいわゆる「やんちゃな生徒たち」としっかり向き合われてこられました。葬式では、生活指導の研究会を立ち上げて若い先生方をリードされていたことも知りました。生徒や保護者以外にも、多くの人と沢山の実りある関係を築いてこられました。苦しいことも多かったと思いますが、あの笑顔と輝く瞳で、そのときその時をしっかり生きてこられたことが偲ばれ、本当にすごい先輩だったとの思いを強くした次第です。多くの方々が先輩との出会いを忘れ得ぬものとして大事にされていると感じました。今にして思えば、50周年記念演武会を先輩に見せることができて本当に良かったです。有り難うございました。ご冥福を心からお祈り致します



2015年(平成27年)10月 ご逝去 藤川勇誠氏(19代)

(追悼の言葉1)

藤川君のご逝去に接し、あまりに突然のことで残念でなりません。ご家族の皆様の心中を思うとお慰みの言葉も見つかりません。藤川君が鼓手の練習を頑張っていた姿、寮の部屋で堀尾君たちと楽しく過ごした時間、酔っても覚めても純朴で誠実だった人柄を思い出しています。 卒業後ずいぶん経って、藤川君が勤めていた会社を辞めざるを得なくなり、相談を受けたことがありました。その時に力は貸せなかったけれども、学生の時と同じように話しができたことがとても嬉しかった。しかし、もう話すことができないとは。まだ気持ちの整理がつきません。心からお悔やみを申し上げます。

(追悼の言葉2)

応援団時代のアルバムを見ています。藤川君は笑顔です。藤川君のたたく太鼓の音、バチの音がよみがえってきます。藤川君の純粋で優しい語り口調が懐かしく思い出されます。藤川君のお陰で応援団を続けることができました。来年のOB会で会いたかった。残念でなりません。

 

(追悼の言葉3)

藤川君が亡くなったとの知らせが届きました。実家で農作業中の事故だったようです。2年前のOB会で再開したのが最後になってしまいました。来年のOB会には、参加してもらおうと思っていたのに…。連絡を受けて以降、純朴な藤川君の姿が思い出されてなりません。今はただ、ご冥福をお祈りするばかりです。安らかにお眠りください。 



2015年(平成27年)2月 ご逝去 佐村輝男(4代)

(法要に出席)

野村先輩、林先輩、河村、長谷君4名で。昨日(3月29)佐村先輩の仏前お参りに行ってきました。49日の法要のあとご多忙の中1時間程度思いで話をさせていただきました。奥様と話がゆっくりできてと思いましたのは、佐村先輩の一生は66年間でしたが、充実した密度の濃い人生を送られ平均寿命以上の人生だったと思いました。行って本当に良かったです。安らかにお眠りください。

 

 (法要に寄せて)

佐村先輩のご仏前お参り、どうしても都合つかず御無礼します。よろしくお伝えください。和田先輩のご葬儀て久々振りにお会いし、声を掛けて下さったのに側に寄っての話ができなかった…。思い出は、藤崎から一緒に屋台を押して帰ったことです。「梅と兵隊」を唄いました。


2013年(平成25年)12月 ご逝去 内田清(6代)

(追悼の言葉1)

内田清さんのお兄さんから悲報を受け取りました。
内田さんは昔の懐かしい思い出話をするなど穏やかの日々もありました。平成24年のOB会当日には河村会長と電話で来年のOB会には是非参加したいと話されていました。OB会で会えることを楽しみにしていましたが残念です。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

(追悼の言葉2)

内田君、安らかに・・
生産機械科でも同窓の君の訃報に接し、只々沈んでおります。白川の畔の下宿屋で語り、飲んだことが思い出される。犬童さん、田尻、恒喜もおったよな・・
学生運動の最中に入学した我々「団塊組」は、真面目に明日を憂えたよな・・今宵は久し振りに40数年前の感慨に浸っております。 

 

(墓参り)

12/7,内田先輩のお墓参りに行きました。OB会から花束他お供えさせていただきました。
副島先輩、古賀先輩、茅畑先輩、野上先輩、林先輩、原田君、遠方ありがとうございました。
前原駅前にて集合し霊園まで内田先輩のお兄さんに案内していただきました。在りし日の故人の写真を見せていただき、ほんとうに楽しそうな写真ばかりで充実した中身の濃い人生だったんだなと感じました。お兄さん本当にありがとうございました。お参りできて良かったです。



2013年(平成25年)11月 追悼OB会 (故)和田英樹(初代)

H25/11.2、OB会総会、和田先輩追悼式、懇親会開催しました。今回は何時もより多数の参加ありがとうございました。
和田先輩の追悼式では、池田先生、顧問の中川先生、古賀先輩から追悼の辞をいただきました。
懇親会でも副島先輩、南先輩、上城先輩、桃坂先輩他お言葉を頂きました。改めまして和田先輩の偉大さ、和田先輩の男の世界、和田先輩の人間力の豊かさを話して頂き本当に私たちOB に勇気と感動を与えていただきました。開催して良かったと思いました。そして皆様のご協力ありがとうございました。


2012年以前の物故者

顧問  金守 新一 氏

6代    田尻 大    氏

14代  太田 丈志 氏

2代  原  誠  氏

6代  中川 恒喜 氏

24代   秋満 恭子 氏

5代    犬童 一昭 氏

14代  工藤 賢治 氏

29代  間宮 健次 氏