今も伝わる応援団の熱き想い・・歴代「剛毅」から

(41-50) 10本づつまとめています。右のシートをクリックしてください。


 第41回 練習の辛さもOB会の感動でうれしさに変わる

 

応援団の夏といえば…そう、なんです。夏合宿です。8月28日から9月3日まで武夫原で合宿、そして9月5日からは強化練習がありました。最初は冷夏を象徴する雨のため、早朝練習に代わる合宿所での硬い床の上での正座から始まりました。それでも3日目からはカラリと晴れて夏合宿らしい練習になりました。10時から12時までの基礎体力づくりは、ひたすら暑さと自分との闘いで、限界体力(?)との闘いでした。気分がもうろう、昼食が食べられない者が続出です。午後の演武練習も暑くて頭がボケーとしてきましたが、そんなときに頭からかけてもらう水は最高でした。

練習について行こうと必死でもがいているうちに6日間の地獄は去っていきました。でもダメ押しの強化練習が待っていました。OB会を目前にしてひたすら演武練習に励みました。そして、OB会を迎えました。OB会の圧巻は何と言っても「巻頭言」でした。武夫原頭に草萌えて♪…と体育館狭しと舞い踊り歌われる姿は、まさに壮観という以外にありませんでした。OBの心の奥深くで応援団が生き続けていることに、たまらないくらいに感動をしました。そのあとのコンパでは、多くのOBの方から話を聞けたのも大変有意義でした。

翌日のソフトボールでは、我ら1,2年生チームは長老チームと対戦をして、若さで圧勝と思いきや、長老チームの打撃が爆発してなんと33点も取られてしまいました。

そして、OB会は終わりました。多くの感動を僕らに残していきました。苦しい地獄のような練習を耐え抜いたからこそ、OB会の成功がうれしく感じられました。OBの言葉の一つ一つが心に残り、忘れえぬ夏になりました。

 

(昭和55年10月発行「剛毅」ウルタン12号から)

(写真は昭和55年9月の第5回OB会から)


第42回 一回生のそれぞれの思い…(8代)

  

(A一回生談)

入団した時「応援団に入った感想を言え」と言われた。

「いつ逃げ出そうかと考えています」と答えたのを覚えている。

ところが、現在まだ逃げ切れずに毎日、苦しい練習を続けている。練習について行くのが精一杯で逃げ出す理由を考える余裕が今はない。今はただ何も考えず一生懸命に取り組み早く2回生に追いつけるようになりたい。

 

(B一回生談)

早いもので入団してもう3か月になる。練習がきつくて何度もやめようと思ったが結局辞められなかった。あと3年間、みんなと一緒にガンバロウ!!

格言「応援団に入ることは馬鹿になることに他ならない」であるが、馬鹿になりきれなくて悩んでいる男である。

 

(C一回生談)

入団当初は、毎日の練習の苦しさばかり心に浮かんできて、何でこんな苦しさを感じなければいけないのかをいつも考え続けてきた。応援団というカッコ良さに魅かれて入団したものの、カッコ良さなんか少しもなく、汗を流し泥にまみれての練習ばかりの毎日であった。しかし、挫折しようとすると「それは自分への甘えだ!」と諭し応援団を続けるように勧めてくれた先輩に、今は感謝しなければならない。

今は、自分に甘えることなく強くならなければならない。まだまだ、これまでと同じような苦しい道が続くであろうが、この苦しさを乗り越えた先輩たちがいるのは心強いし、自分もやり抜こうと決意を新たにしている。

 

(D一回生談)

応援団に入団して数か月がたった。苦悩の連続であった。何度も何度も応援団をやめようと思った。今もそう思っている。しかし応援団には、それを実行させてくれない何かがある。目に見えない漠然とした何かが…。引力に似た何かが応援団という「オリ」の中から逃げ出させてくれない。私はそれが何かわからない。しかし私は今までその「オリ」の中で自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。そしてこれからも一生懸命やるつもりだ。

フレーフレー クーマーダーイー  押忍

 

(E一回生談)

勧められるままに入った応援団だが、そのころはどんな練習をやるのかもよく知らず軽率だったような、またそれで良かったような…どっちともつかない気持ちがしている。練習がキツイ時は逃げ出した気がするが、練習のあとのコップ一杯のコーラーがうまい。

 

(F一回生談)

入団して体重も落ちたし体力にも少し自信がつきました。途中何度もくじけて辞めようと思いましたけど、結局今日まで続けてきてよかったと思います。他の派手なクラブみたいにはっきりとした目標がない応援団ですが、応援団を辞めれば自分に負けたことになるので、力の限り頑張りたいと思います。

 

(G一回生談)

応援団に入って良かったか悪かったかまだよくわからないけど、最初のうちのように今は辞めようとは思わない。練習はきついしリーダー長の顔が嫌になる時もあるけど、何とか勉強と両立をさせたい。

 

(H一回生談)

まだ、応援団についてあれこれ言う資格はないだろうが、ちょっと酒を飲みすぎるのではないか。親が知ったら応援団どころの騒ぎじゃない。練習はキツイが練習が終われば一切応援団のことは考えないことにしている。これからずっと続けていく自信はない。

 

(I一回生談)

応援団では、一人ひとりの動作がいかに大切かということを学んだ。人より動作が遅いと言われるが、そのうちよくなるんじゃないかと思っている。今一番楽しいことは、先輩や同級生と一緒に酒やビールを飲んで話すことだ。練習はきついが気長にやっていこうと思っている。

 

(Jマネージャー)

応援団についフラフラと入ったものの自分の安易さに反省させられた。団員の皆さんが厳しい練習を終えて部室に戻ってくるのを見るにつけ、私だけ元気でいいのか…少し気が引ける気持ちがしていた。マネージャーの仕事は、外の人にはなかなか理解してもらえずつまらないと思っている人もいるが、私は私なりに、団員の皆さんが練習に励むと同様に自分に充てられた仕事を一生懸命、ただ一生懸命やろうと思っています。           

( 昭和46年10月発行「剛毅」ウルタン3号から)

(写真は昭和46年7月のインカレ応援(大分)から)


第43回 怪我や苦しいから辞めたい…でも辞めたら全てを失う(二回生)…7代 

 

(A二回生)2年生の夏を迎えた。苦しいこともみんな楽しい思い出として残り、今も僕はこの応援団とともに暮らしている。練習がきつくて嫌だといいながら黙々と練習に励むことがどんなに幸せなことだったのか!僕は身をもって知った。

故障して練習ができない、きついから嫌だと言って応援団から逃げることは、応援団生活の中で感じ得られるすべてを捨てることになる。応援団で感じる貴重なものは、練習よりももっともっと大切なもの、練習よりももっともっと苦しいものであるかもしれない。これからも”忍”と”和”のもとで、僕は一団員としてこの応援団をしっかりと支えていきたい。

 

(B二回生)応援団に慣れてしまってはいけない、常に新しいものを求め続けなければいけないと思います。練習も受け身ではなく自分から進んで能動的に取り組めば、必然的に自分の体に感じてくるようになります。また応援団は謙虚でなければなりません。他のクラブとのギャップが生じたら応援も有名無実化してしまいます。他クラブと信頼関係を結べたら何と素晴らしいことでしょう。他のクラブとともに語り、彼らの苦しさを我々の体で感じ、他のクラブを理解しなければならないと思います。厳しい練習、謙虚さ、そして押忍がなければ、応援であれ壮行会であれ、彼らの心に訴えるものはないような気がします。

そして、応援団を通して自分の骨身を削るような辛苦、心の底から流せる純粋な涙、自分のけがれを洗い流すような発汗のある青春を送りたいと思っています。

 

(C二回生)応援団を離れて生活することはできなかった。逃げても 逃げても俺に襲い掛かってくる。唯一逃げることが出来ると思っていた眠りの中でさえ、時として夢に現れる。「応援団、貴様は俺にとって何なんだ?」

常に俺の自由を収奪する奴、酒の美味しさを教えてくれた奴、苦しいあとの喜びを教えてくれた奴、俺の肝を大きくし俺をとうとう「馬鹿」にした奴…。

俺は応援団だけで、この大学生活を終わりたくないが応援団を除いて終わることもできない気がする。

 

(D二回生)押忍があり酒があり女があり、我が青春に悔いは無し。勉強もするよ。

 

(E二回生)応援団は僕にとって一つの“壁”、ただぶつかるのみ!!

 

(F二回生)応援団の存在すらはっきりしていない何かを求めて、日々練習、団行動をしていきたい。

 (昭和46年10月発行「剛毅」ウルタン3号から)

(写真は昭和47年4月の鹿児島大学での春合宿から) 


第44回 押忍の世界 応援団の世界(幹部)…6代目

 

(A幹部)午後5時から厳しい練習…「押忍」の会釈により始まった。その練習は個人の血となり肉となり肉体的な自信になっていく。さらに精神的により高い次元に導いてくれる。そして「押忍」で練習は終わる。この応援団の「押忍」は始まりと終わりの挨拶だけでなく、僕とあなたとの心の懸け橋となり更に広がっていく。  押忍

 

(B幹部)他人に対して不平、不満を抱いていても応援団の練習で精一杯体を使うと、自分の弱さや心の狭さに気づいて不思議と不平不満がなくなり、スカッとした気分になるものだ。この寛容と感謝の精神が20数名のいろんな人間が一つとなり、長年にわたって応援団を発展させてきた一因ではないかと思う。

 

(C幹部)朋あり、遠方より来たる。また楽しからずや

 

(D幹部)

これほど 俺を鍛えてくれるものは他にない

これほど 自分自身を見つめさせてくれたものは他にない

これほど 人を見させてくれたものは他にない

今これほど 熱中しているものは他にない

ありがとう“熊本大学応援団”

 

(E幹部)

自分に厳しく 他の笑みを

厳しく苛酷な練習に全力を尽くし己を鍛錬する

碁を打ち将棋を指すが如く思慮深く

一挙手一投足は大胆に

 

(F幹部)入学前には考えられないことばかり体験した。応援団に入団したことは運命だったかもしれないが、最良の道かどうかはわからない。でもこれだけは言える。

厳しい、しかも肌を突き合わせての限界を極めるごとくの練習を通して真の友情が芽生えたようだ。そして応援団を通して、大いなる「馬鹿」にも出会えた。この生き様としての「馬鹿」とは、大筋のところを捉まえて動かない人物のことのようだ。大学4年間ぐらいは、小利口ものにならずに「馬鹿」で通そう。

(昭和46年10月発行「剛毅」ウルタン3号から)

(写真は昭和46年9月の第2回OB会から)  


第45回 夕闇が迫る武夫原に響く歌声に…      

 

武夫原に夕闇が迫る頃、今日も又、応援団の練習の声が研究室まで聞こえてくる。

「ああ、今日も皆元気にやっているなあ。」

私も頑張らなくてはと、自分を励ますことが最近たびたびある。近頃、学内における雑務的な仕事が多くなり、なかなか団員の諸君と話す機会がないまま、何となく諸君も研究室や我が家からやや足が遠のいているようだ。

昔は(昔とは大げさだが)団長を始め団員の諸君が何かと理由をつけて話し込みに来たり、或いはこちらが悲鳴をあげるくらい我が家にも押しかけてきた。

私自身も諸君と、杯を交わしたり、人生や学内問題等について勝手きままな話をするのが楽しみであり喜びであった。そのことが楽しかった思い出として残っている。

この十数年は私も熊大に在職していると思うが、今後、年をとればとるほど君たちとの語らいや思い出は大切なものになってくると信じているし、また大切にしていきたいと思っている。

卒業した諸君は、約束通り必ず近況報告を始め、大切なお嫁でももらう時は、それこそ事前報告の義務を怠らないようにしてもらいたいし、在校生の諸君は、がなかなか運動場に出られないからと敬遠せず、私の研究室や自宅に押しかけて来て、たまには夜の巷に誘惑してもらいたいと心ひそかに思っていることを白状しておく。

(昭和46年発行 剛毅第3号)

(写真は昭和48年1月の第4回OB会から)


第46回 一層の羽ばたきを 維持は後退である 

 

初代、二代の先代の努力で応援団の基礎はなされましたが、しかし、まだ熊大応援団は若い。我々は一層羽ばたかなければなりません。
応援団の根本的理念は変わらなくても、その代々によって性格は異なってくる。団をただ維持するだけならば維持しているつもりでも、それは後退でしかない。我々は、普段の反省と努力、このありふれた言葉でのみ成長をさせることができる。それは容易そうに見えて容易でない。
また、我が団員に望むことは各々が団そのものに埋没するあまり、自分を見失う危険性、あるいは偏った考え、生き方に走らないように注意して欲しいことである。更に広く眼を団以外に向け、その立場での自分、あるいは団と結びついた自分を考え行動し、幅のある人間に成長してもらいたいと思う。

(昭和45年発行 剛毅第2号)

(写真は昭和45年7月 インカレ応援-平和台)


第47回 孤高……我が熊本大学応援団        

私の5年間の熊大生活のうち、後半2年間の全てをかけた応援団。喜怒哀楽…そう、それはまさに生活の全てだった。商大との合同練習、初めての団長会議、まさに本当の兄弟だった合宿、武夫原の砂の上を裸足で走った厳冬の早朝、理由もなく、あとからあとからとめどもなく涙のこぼれたコンパ、そしてとても思い起こすことできないさまざまなことが走馬灯のように脳裏をかすめ過ぎては、あの感激の発会式につながる。もう、あの日から3年の歳月が流れた、まさに感無量。 

太鼓が欲しかった日々、団旗が、校旗が、部屋が、演武が、練習場が、そして何よりも団員が欲しかった日々。それらの日々が教えてくれたのは、「求めなくてはいけない」ということだった。「限りなき欲望が限りなき前進につながる」ことだった。より堅固な「団結」を求め「和」を求め、より素晴らしい『応援団たること』を求める。いつまでもどこまでも、限りなく求める応援団でありたい。 

誰かが言った

「何であろうと 人間が本気でやることは そのままで立派だ」

ウルタン~~実に懐かしいことばだ。

今やすでに5代目を数え、多くの団員を持ち、優れた演武と立派な校旗とを有し、部屋も練習場もある。私達が欲しかった外面的なものはほとんど揃い、その上、ある程度の実績と信用と名声をも得た。

そのことは、私達にとって、まさにこの上ない喜びだ。だが、その居心地の良さの上に、もしも胡坐をかきそうになった時、思い起こして欲しい、ただ一つのことがある。それは、この集いが常に人間と人間との、友と友との心の触れ合いによって支えられているということだ。そして、またそのことの「誇り」だけが、私達の“世代”を支えてくれたのだ。

孤高……我が熊本大学応援団は、そんな一本の厳しい道を行く

(昭和45年発行 剛毅第2号)

(写真は昭和46年9月の第2回OB会から)